大久保地車紹介

大久保について

 
中家にある史料の古いものの中では大窪と書かれていましたが、江戸期より大久保となりました。
 大久保の地名の由来については、明確な資料はありませんが、中家にある古い資料の中で大窪と書かれてあるので、各地の大窪の呼び名からすると大きな窪からきていると考えられます。
熊取は近世の熊取谷の表記からもうかがえるように谷の世界を形成していくつかの川に沿って集落が形成されてきました。
窪というのは丘陵地との間の低地、湿地をさすのが、一般的で、大久保の場合、佐野川の支流である雨山川と住吉川が流れ天然の用水が得られ、水田耕作が盛んに行われたと考えられます。
雨山川、住吉川沿岸の広い(大きい)窪地、そこから大窪→大久保となったのではないでしょうか?
以上のことは私が考えた説ですが、諸説いろいろあるでしょうが、熊取の歴史を知る上で重要な中家の古い資料では、熊取谷が形成されたときにはすでに大久保が存在しています。
そうなると、人々の日常の呼び名から地名になったと考えるのが一般的ではないでしょうか?
大久保の由来についてご存知の方は是非お知らせください。
 大久保区区議員法被
 大久保は熊取町の中で駅前を含む海側の地区で正式には、大久保区 と呼ばれています。大久保区は区内を1区〜7区で区分けされており、区内では 大久保〜区と呼ぶのが一般的です。又、大久保の字地の平見は3区に属しています。
平見は西犬鳴街道の平見峠付近に位置する。
 平成十年三月時の大久保区の戸数約一千九百戸、人口五千二百名余り、泉州地区でだんぢりを曳く地域の中でも戸数、人口とも多い地区になります。 (平成十九年度の調査では3392戸、人口9584名)
 大久保には、大久保区、青年団、地車会、子供会の祭りに参加する団体のほか、長生会、婦人会、消防団、があり町内、区内の各種行事に参加、協力しております。

 
大久保だんじりについて

 大正七年岸和田宮本町新調地車で、宮本町の先々代地車になります。
 大正十年に六千五百円で購入したと伝えられています。


 大工棟梁は岸和田市宮本町住人「大喜」事、「小川喜兵衛」棟梁
「大市」こと川岸氏の手も入っていると言われています。
彫物責任者は「上間庄平」師 助として「伊藤松吉」師

昭和六十一年、岸和田「植山工務店」にて修復され、「植山型」のだんじりとして見事に蘇っています。
そのときに 左右の松良を新調しています。

彫り物は大屋根枡合が曽我物語から正面「十郎、五郎の勇戦」 縁葛「支那の二十四孝」、小連子に富士の巻狩り、土呂幕「難波戦記より」正面は大阪夏之陣から「薄田隼人徳人徳川本陣討ち入り」
見送りは「大坂夏之陣」となっています。
また、新調当時、武将の持ち物の多数は一木彫りで頑丈に細工され 現在でも当時の面影を残しています。
修復後、大久保のだんじりは、熊取町の行事に借り出される事が多くなり、昭和六十一年の町制三十五周年パレードを初め昭和六十三年にオーストラリアで開催されたブリスベーン国際レジャー博覧会、平成二年の大阪花の博覧会、平成三年の町制四十周年パレード、五十周年パレードに参加しています。

 
 中家古文書に記されてある昔のだんじりは、文化二年新調(1805)。 その後、安政二年(1855)に岸和田市沼町に売却され明治三十三年まで 曳か れ老朽化のため焼却処分されたといわれています。